ジェイムズ・ケビン・ブラウンJames Kevin Brown, 1965年3月14日 - )は、アメリカ合衆国ジョージア州ミレッジビル出身の元プロ野球選手(投手)。

経歴

プロ入り前

ウィルキンソン群アーウィントンにあるウィルキンソン群高校に通いながら、アメリカンフットボール、野球、テニスの学生でありレターマンとしても在籍していた。大学野球ではジョージア工科大学で3年間プレーしていた。

レンジャーズ時代

1986年のMLBドラフトでテキサス・レンジャーズから1巡目(全体4位)に指名を受け入団。同年9月にメジャー昇格を果たし、9月30日のオークランド・アスレティックス戦でメジャーデビュー。5回2失点で初勝利を挙げた。

1988年9月に再昇格し、9月14日のアスレチックス戦で9回に失点し完封こそ逃すものの、1失点でメジャー初完投勝利。

1989年からは先発ローテーションに定着し、12勝9敗、防御率3.35を記録。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では6位に入った。

1990年は開幕から5試合で5勝。6月20日のミネソタ・ツインズ戦ではわずか79球、4安打無四球でメジャー初完封を飾った。前半戦で10勝を記録したが後半戦は2勝に留まり、12勝10敗、防御率3.60だった。

1991年は9勝12敗、防御率4.40に終わる。

1992年は前半戦で14勝を記録してオールスターゲームに初めて選出され、アメリカンリーグの先発投手を務めた。最終的に21勝11敗、防御率3.32、リーグ最多の265.2イニングを記録し、ジャック・モリスと並んで最多勝のタイトルを獲得。サイ・ヤング賞の投票では6位に入った。1993年は15勝12敗、防御率3.59を記録。1994年は開幕から6試合連続で2桁の被安打、4月19日のトロント・ブルージェイズ戦では自身ワーストの10失点を喫するなど不調で、7勝9敗、防御率4.82、両リーグ最多の218被安打と不本意な成績に終わる。オフにFAとなった。

オリオールズ時代

1995年開幕前の4月9日にボルチモア・オリオールズと契約。シーズン最後の登板で完封勝利を挙げ、2年ぶりの2桁勝利に到達。マイク・ムッシーナに次ぐチーム2位の10勝、防御率3.60の成績を残した。オフに再びFAとなり、12月22日にフロリダ・マーリンズと契約。

マーリンズ時代

移籍1年目の1996年は、前半戦援護に恵まれず7勝7敗ながら、防御率1.89を記録し、4年ぶりにオールスターゲームに選出される。後半戦で10勝を記録し、シーズン通算で17勝11敗、防御率1.89、リーグ最多の3完封を記録し、最優秀防御率のタイトルを獲得。サイ・ヤング賞の投票ではジョン・スモルツに次ぐ2位に入った。

1997年6月10日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で8回二死から死球を与えて完全試合は逃したものの、前年のアル・ライターに次ぐノーヒットノーランを達成。オールスターゲームにも2年連続で選出された。16勝8敗、防御率2.69、205奪三振を記録し、チームのワイルドカード獲得に貢献。ディビジョンシリーズでジャイアンツを3連勝で下すと、アトランタ・ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦と第6戦に先発登板し、いずれも勝利を挙げて、ワイルドカードからは史上初、当時史上最速となる球団創設5年目でのリーグ優勝の立役者となった。クリーブランド・インディアンスとのワールドシリーズでは第2戦と第6戦に先発登板したが、共に敗戦投手となった。しかしチームは4勝3敗でシリーズを制し、世界一の栄冠を手にした。球団の緊縮財政の影響で12月15日にデレク・リー他2選手との交換トレードでサンディエゴ・パドレスへ移籍。

パドレス時代

1998年前半戦で10勝を記録して、3年連続でオールスターゲームに選出される。18勝7敗、いずれもリーグ2位の防御率2.38、257奪三振を記録し、チームを地区優勝に導いた。ヒューストン・アストロズとのディビジョンシリーズ第1戦で8回を2安打無失点、シリーズ記録の16奪三振を記録し、ランディ・ジョンソンとの投げ合いを制した。ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第2戦で3安打、11奪三振完封勝利を挙げ、14年ぶりのリーグ優勝に貢献。ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでは第1戦と第4戦に先発登板したがいずれも敗れ、チームも4連敗で敗退した。オフにFAとなり、12月12日に当時史上最高額となる7年総額1億500万ドルでロサンゼルス・ドジャースと契約し、ギネス世界記録として認定された。

ドジャース時代

1999年は18勝9敗、防御率3.00を記録。

2000年はオールスターゲームに2年ぶりに選出される。13勝と勝ち星は伸びなかったが、防御率2.58で2度目の最優秀防御率を獲得。

2001年は開幕から好調だったが、故障もあって20試合の登板に終わる。

2002年も5月に故障し、8月の復帰以降は主にリリーフで起用され、3勝4敗、防御率4.81と振るわなかった。

2003年は4月29日から6月17日にかけて9連勝を記録する。オールスターゲームに選出されたが登板はなかった。14勝9敗、リーグ2位の防御率2.39と復活を遂げた。12月13日にジェフ・ウィーバー、ヤンシー・ブラゾバンらとの交換トレードでヤンキースに移籍。

ヤンキース時代

2004年は日本で開催された開幕シリーズで勝利を挙げるなど、4月にピッチャー・オブ・ザ・マンスを受賞したが、背筋痛で投球フォームを崩し、10勝6敗、防御率4.09。ツインズとのディビジョンシリーズでは勝利を挙げたが、ボストン・レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは2試合に先発登板して防御率21.60と絶不調で、チームも史上初めて3連勝の後4連敗を喫し、自身3度目のワールドシリーズ出場はならなかった。

2005年も背筋痛に悩まされて不甲斐ない投球が続き、7月に故障者リスト入りした。

2006年2月20日に引退を発表した。

薬物疑惑

2007年12月13日発表のミッチェル報告書に名前が記載された。報告書によると、ニューヨーク・メッツの元クラブハウス従業員であるカーク・ラドムスキーはブラウンに禁止薬物であるヒト成長ホルモン(HGH)とデカ・デュラボリンを2000年か2001年より後の2~3年間にわたって5~6度販売したと主張している。ポール・ロデューカから紹介されて知り合ったという。連邦捜査官が押収したラドムスキーのアドレス帳にブラウンの名前は記載されており、ラドムスキーからブラウン宛ての2004年6月7日付のメール送信履歴が証拠として残っていた。また、2003年にドジャースの幹部の会合でもゼネラルマネージャーがブラウンのステロイド使用を推測する発言を行っていた。これらの主張についての情報を提供し、応答の機会を与えるためにジョージ・J・ミッチェルが面会を要求したが、ブラウンはこれを拒否した。

詳細情報

年度別投手成績

  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 「-」は記録なし
  • 通算成績の「*数字」は不明年度がある事を示す

年度別守備成績

  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

  • 最多勝利:1回(1992年)
  • 最優秀防御率:2回(1996年、2000年)

記録

  • MLBオールスターゲーム選出:6回(1992年、1996年 - 1998年、2000年、2003年)
  • ノーヒットノーラン:1回(1997年6月10日、対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦)

背番号

  • 43(1986年)
  • 41(1988年 - 1995年)
  • 27(1996年 - 2005年)

脚注

外部リンク

  • 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)

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